みんながいる。大丈夫。

Dance with Grief

2014年に母をじしで亡くしてからの、娘の話。実験だったり、冒険だったり、メンタルが強かったり激よわだったりする話。

『じしいぞく』という言葉を使うまでの私の葛藤(かっとう)②

前回からの続きです。

 

この漢字4文字は現実を突きつけられるいちばんこわい言葉。いやだ。いやだ。いや。

 

うーん。

 

なんでこんなに助かる道への最初のハードルが高いんだろう。

 

でも今の時代に私が助かるにはここをなんとか通り抜けなきゃいけないみたい。

 

苦しい。つらい。直視できない真っ黒に見える言葉。

 

でもとりあえず、今は、この言葉を借りてみるのはどうだろうか?

 

まだ何もかも受け入れられない気持ちのままでいいから、

 

先のことは後から考えることにして。

 

私はそう考えました。

 

でもそういう気持ちになる為だけに、少なくともお葬式のあと1ヶ月以上はかかりました。

 

その間、兄にこんな質問をしました。

 

『どうしてじしいぞくっていう言葉があると思う?他にはあんまり名前なんてないのに』

 

(注/まだ色々な事を知る前でしたので)

 

すると兄は、

 

『よくわからんけど、受けている衝撃(しょうげき)の大きさを表すためじゃないかな?とりあえず俺は好きではないな』

 

『なるほどm(._.)m』

 

そして私の兄は、

 

『でもな、俺はじしいぞくではないよ。俺達は犠牲者ではないし、守ってもらうべきかわいそうな対象ではない』

 

自分はじしいぞくではないと言う兄と、

じしいぞくという言葉を一旦借りることにしてサポートや知識を探した妹。

 

ここが私たち兄妹のわかりやすい生き方の違いでもありました。

 

結果5年が過ぎて、

 

おかげさまで私たち2人はお互いに沢山の方から自分に合った様々な形で支えて頂き

 

2人ともたくましくまた生活を送る事が出来るようになってきているので

どちらが正解というわけでもありません。

 

むしろどちらも正解だと思います。

 

そして、当時の兄の気持ちもわかります。

 

『俺達は犠牲者(ぎせいしゃ)ではない』

 

生きることや亡くなることについて、当時まだ深く考えた経験のなかった兄や私にとっては(兄は30.私は28の時なのでいい大人ですが)

 

ニュースや新聞等でしか『遺族』という言葉を聞く機会がなかったからか、

 

それはなんらかの死亡事件や事故等の犠牲に苦しんでいる遺された方という、言葉が持つ以上に辛いイメージを勝手に持っていたのかもしれません。

 

繊細な時期もそう思う事を手伝ったのかもしれません。

 

『かわいそうな対象ではない』と言った事から考えても、他にも色んな葛藤(かっとう)が兄にもあったのだと思います。

 

自分たちがもしも犠牲者なら、お母さんは?

 

そんなわけない。

 

だから私たちは犠牲者ではない。

 

当時そんな気持ちが私の中に渦巻きました。

 

うーん

 

うまく言葉にできず語弊(ごへい)があったら申し訳ないのですが

 

今も、私はこのじしいぞくという言葉が得意ではありません。

 

でも先程も書いた通り、お借りしています。

 

それはサポートや知識を得るため、いつか何かが分かるまで、もう少し今を生きてみるため。

 

その少しずつを続けていくため。

 

そして認知の広がりをまたお借りするため。

 

だからせめて、今は漢字の持つ強さを消したくて私はひらがなにしています。

 

なんと、まだ続く。